科学の効用
そもそも科学に対する考えを文章化しておこうと思ったきっかけが、大栗先生の以下の記事だったりする。
こちらで気になった表現を2つ載せたい。一つ目は、イギリスの物理学者マイケル・ファラデーの逸話。
19世紀に電磁誘導を発見したマイケル・ファラデーは、当時の財務大臣であったウィリアム・グラッドストーンに
「電気にはどのような実用的価値があるのか」
と問われ、
「何の役に立つかはわからないが、あなたがそれに税金をかけるようになることは間違いない」
と答えたと伝えられています。
もう一つは、フランスの数学者アンリ・ポアンカレの言葉(を引用している大栗先生)。
ポアンカレ自身も、「価値のある科学」とはより普遍的な法則を見つけることである。そして普遍的な科学に価値があるのは、それがさらに多くの科学の説明につながるからであると述べています。このように普遍的な価値のある発見が、長い目で見て、実用方面にも応用を持つようになることは自然なことだと思います。
この二つの言葉は、「役に立つこと(実用的価値)」と「科学として価値があること(普遍的価値)」は本来分割されるべきもので、しかも前者に過剰なweightが置かれていることを思い出させてくれる。でもそもそも、後者ってなんだろう?
大栗さんの説明にもあるように、(物理のような)基礎研究の共通ゴールは、少数かつparameter依存性を排除した、一般性の高い法則の構築にある。
自然現象とは、「特定のセットアップを指定することによる、一般法則からの帰結」なのだから、より根本的な理論を構築すれば、どんな状況でも包括的に説明できるでしょう、というのが基礎研究者の信念だ(general non-sense i.e. 抽象度が高くても具体例を伴わない形式論, への変貌は避けたい)。そして、より基礎的であるほど、より多くのセットアップに対応できるのだから、多くの現象を記述できるだろう。
包括的な枠組みを作ると、「特定のセットアップ」を探すことに問題が移る。そこさえクリアすれば、新現象から新しいことができるようになるかもよ、というのが基礎研究者のスタンスだ。
普遍的価値は実用的価値の生産元となりうる。ここに「普遍的価値のありがたみ」があるんじゃないだろうか、というのが二つの考え方のまとめ。
ただし実際には「なるかもよ」が曲者で。
後発をガンガン生んで新たな知見を得ること、離れた分野を結びつけることで融合的な知見を得ること自体が肯定されてしまっている。マニアックでタコツボ的な業界が、数え切れないほどあるわけだ。
世界で5人にしか伝わらないmaniaを、私たちはどう受け止めたら良いのか?彼/彼女らは「ゆるされている」のか、「積極的に謳歌している」のか?
この問題に対するドロッドロした感情が、案外自分にとって大切で、どうにか言葉にしたい。次の記事で考えていこう。
最後に。
上二つに加えて、大好きな考え方がある。twitterで見たけど思い出せなくて悶々としてるのだけど、
「文学が世界にどう役に立つかではない。世界が文学にどう役に立つかだ。」(曖昧)
という旨のtweetがあった。
見つけた時は「愛すべき清々しさを伴う開き直り」程度に認識していたし、私自身の悩みを解決してくれるわけではないのだけど、基礎研究者が自己肯定する最上の手段なんじゃないかな、と思ってものすごく気に入っている。