The Five People You Meet In Heaven
「世界で5人しか喜ばない研究」のことを考えようとも思ったけど、薄暗い地下室からダウナーを無理して呼び覚ますほどのタフネスはなかったので、5人つながりで思い出した話を展開することにした。
タイトルの邦題は「天国の五人」。また読もう。。以下の説明はGoogle Booksより。読もう。。。
83歳のエディは一瞬の事故であっけなく死んだ。妻に先立たれ、子供もいない。仕事も希望どおりではなかった。彼の人生はなんの意味もなかったのか...。しかし、その死は本当のおわりではなかった。この物語はおわりから始まる。彼を天国で待っていた五人の人物とは?エディが最後にたどりついたものは。
「天国の五人」は、良くも悪くも多大な影響を受けた人たちとの対話を通じて、人生の分岐点を確認し、生涯を振り返る物語だったように思う。細部については曖昧ながらも、最後の一人は主人公を残して先立った奥さんだったことはよく覚えている。
死後の世界ということで、登場人物は、自在にappearanceを変えられる。奥さんは「自分が最も美しく、それゆえ夫に愛されていた」であろう若い姿で現れるのだけど、主人公は「家族として長く過ごして絆で結ばれた老夫婦としての自分たち」を望んで姿を変えてもらう、と。
いいねえ。こんなんクリティカルヒットするやん。
「パートナーとして君を選んで幸せだったよ」
って人生で言いたい/言われたい言葉ランキング殿堂入りだもの。
"depends."
"I love you."を「愛してるよ」と訳す輩はなんもわかってねえのさ、という話がある。長い間頭の中で熟成させた結果、少しずつ頷けるような気がしてきている。
「最上級の賛辞というか感謝というか愛というか、的なふわふわしたものを『愛してるよ』で表現しきっちゃうのか、自分それでええのんか?そんなもんちゃうやろ??」
ってまくし立てたくなる。
天国の二人が交わし合う"I love you."は、ティーンエイジャーの若い男女が砂浜で夜空を見ながらこぼした"I love you."とも、30過ぎの少し頼りない男がプロポーズで勇気を出した時の"I love you."とも、一人暮らしを始めることになった娘が親に向ける"I love you"とも別だし、一つに定めてしまうことにはかなり無理がある。
だれかから受け取りうる最高の幸福への、感謝の気持ち。天国の老夫婦はこれを込めているように思う。信頼と感謝の現れとしての"I love you."が個人的には一番心にやさしい。
科学の効用
そもそも科学に対する考えを文章化しておこうと思ったきっかけが、大栗先生の以下の記事だったりする。
こちらで気になった表現を2つ載せたい。一つ目は、イギリスの物理学者マイケル・ファラデーの逸話。
19世紀に電磁誘導を発見したマイケル・ファラデーは、当時の財務大臣であったウィリアム・グラッドストーンに
「電気にはどのような実用的価値があるのか」
と問われ、
「何の役に立つかはわからないが、あなたがそれに税金をかけるようになることは間違いない」
と答えたと伝えられています。
もう一つは、フランスの数学者アンリ・ポアンカレの言葉(を引用している大栗先生)。
ポアンカレ自身も、「価値のある科学」とはより普遍的な法則を見つけることである。そして普遍的な科学に価値があるのは、それがさらに多くの科学の説明につながるからであると述べています。このように普遍的な価値のある発見が、長い目で見て、実用方面にも応用を持つようになることは自然なことだと思います。
この二つの言葉は、「役に立つこと(実用的価値)」と「科学として価値があること(普遍的価値)」は本来分割されるべきもので、しかも前者に過剰なweightが置かれていることを思い出させてくれる。でもそもそも、後者ってなんだろう?
大栗さんの説明にもあるように、(物理のような)基礎研究の共通ゴールは、少数かつparameter依存性を排除した、一般性の高い法則の構築にある。
自然現象とは、「特定のセットアップを指定することによる、一般法則からの帰結」なのだから、より根本的な理論を構築すれば、どんな状況でも包括的に説明できるでしょう、というのが基礎研究者の信念だ(general non-sense i.e. 抽象度が高くても具体例を伴わない形式論, への変貌は避けたい)。そして、より基礎的であるほど、より多くのセットアップに対応できるのだから、多くの現象を記述できるだろう。
包括的な枠組みを作ると、「特定のセットアップ」を探すことに問題が移る。そこさえクリアすれば、新現象から新しいことができるようになるかもよ、というのが基礎研究者のスタンスだ。
普遍的価値は実用的価値の生産元となりうる。ここに「普遍的価値のありがたみ」があるんじゃないだろうか、というのが二つの考え方のまとめ。
ただし実際には「なるかもよ」が曲者で。
後発をガンガン生んで新たな知見を得ること、離れた分野を結びつけることで融合的な知見を得ること自体が肯定されてしまっている。マニアックでタコツボ的な業界が、数え切れないほどあるわけだ。
世界で5人にしか伝わらないmaniaを、私たちはどう受け止めたら良いのか?彼/彼女らは「ゆるされている」のか、「積極的に謳歌している」のか?
この問題に対するドロッドロした感情が、案外自分にとって大切で、どうにか言葉にしたい。次の記事で考えていこう。
最後に。
上二つに加えて、大好きな考え方がある。twitterで見たけど思い出せなくて悶々としてるのだけど、
「文学が世界にどう役に立つかではない。世界が文学にどう役に立つかだ。」(曖昧)
という旨のtweetがあった。
見つけた時は「愛すべき清々しさを伴う開き直り」程度に認識していたし、私自身の悩みを解決してくれるわけではないのだけど、基礎研究者が自己肯定する最上の手段なんじゃないかな、と思ってものすごく気に入っている。
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Contents
インターン中に基礎研究から離れて実務に取り組んでいると、以下のような科学に関する疑問が湧いてくる:
- What: 科学ってなんだっけ?
- Why: なんで科学やってるんだっけ?なんで人間は科学してきたのか?
- How: どこからが科学なのか?実務との違いとは?
新しい現場で新しいアウトプットを求められるようになったことで、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(ポール・ゴーギャン)を改めて意識する機会が生まれたのかも。
というわけで、このブログは上の疑問を主なコンテンツとして、私の雑感を私のために記すための場所です。
Motivation
2018/08現在に科学に携わる人間として、そして科学に身を捧ぐ覚悟を躊躇する人間として、多角的に考える試みは初めても良いかなと思った。
最終目標としては、大きなストーリーを整理して、進路選択の分岐点まっただ中にいる私だけでなく、5年後の私が納得のいく方向性を、頭で(心でなくとも)腑に落とすこと。
仕事/研究前は眠いし、終了後も脳が溶けかかっているから、しょ〜もない考えのまま途中で終わっちゃう場合もある。
誰にも伝わらない内容を上げることになるのだけど、「私だけが見ている、じゃないかもよ?」くらいpushされる場が欲しいな、というのがモチベーションとなっています。